かつてのわたしは酔眼でものを見たい、見通したいと願う子供だった。願いは今も変わらない。子供のままだからと言われたら反論できない。するつもりもない。電車の揺れ、窓に映るわたしの目が揺れてブレる。けれども酔ってはいない。冷静にものを見ている。見ている?見たいのか?何者でもないものに近づいた視座を得たいのか?ぴんとこない。わたしはバッグからスキットル——金属製の小型水筒を取り出す。つり革で手がふさがっているので、歯でフタを開ける。エドラダワーの匂い。といっても1000円くらいのウイスキーとすり替えたらきっとわからない。フタを右の頬袋にキープ、液体を口に含む。どこか石けんを思わせる香り、それから強烈なアルコール感。脳天に来る。しかし酔いは回らない。わたしはまた窓に目をやる。わたしがわたしを見つめ返している。落ち着いて、心静かな眼差しで。わたしは窓に映ったわたしの顔に蹴りを入れる。ガラスが吹き飛び、鉄橋の下へと落ちてゆく。流れ入る夜風が心地よい。周りは寒そうにしている。わたしは穴を見つめる。黒くて暗い、不安になる色だ。けれど、わたしを見つめ返してくることはない。それでいくらか救われ、いい気分になる。一方的に見ることができるというのはいいものだ。誰かが、あるいは自分が見返してくるから客観なんてものの要請を感じるのだ。わたしだけの目、わたしだけの眼差し——酔眼でものを見ようとするけれど、今日もうまくいかないわたしだった。