今年の無は十分にやりつくした。そんなことをわたしは考える。では来年の無はどうだろう。わたしは考える。無をしているのもアレな気持ちになってきたので無ではないことをしようとする。首をかしげる。そんな動作から無が生じる。無を生じることが無なのだろうか。無を生じることが無であるとしたら。堂々巡りが続く。道行く人がわたしを見る。彼ら彼女らにとって、わたしは無ではないらしい。では、無であるわたしは。みんながわたしに合掌する。どうやらわたしの無はなんらかの希少性があるらしい。希少性とは資本が生む言葉であり、有限の運動がもたらすものである。わたしは無から有へと昇格した。そんなうれしさに踊り出そうとする。けれどわたしの身体は座禅を組んだまま動こうとしない。