わたしは時代の編纂をする仕事をしている。わたしのところには大量のテキストや動画、埋もれた事実が届く。見る人が見れば大きな混乱を呼んだり、政変が起こったりするだろうが、わたしのところにそれらが届くということは、ここから情報が出て行くことはないということを示している。歴史の編纂をし、わたしたちは割り当てられた部屋から一歩も出ることはない。同時に、それらの情報が部屋から出ていかないことが確約されているからこそ、情報がわたしたちのところに入り入ってくる。つまり、編纂をするだけで、生理をするだけで、時効を迎えたらそれらの歴史が部屋の外へと出て行く。それによって、歴史家たちがどのような判断をするのか、議論をするのかは別の話だ。歴史家が歴史の整理と編纂を行うのははるか昔の話で、今は歴史の編纂、整理、発表は別の仕事としてみなされている。歴史を整理しているはずが、いつのまにかその人の語りたくなるという欲望を切り離さなければ、物事を整理することはできないとどこかで悟ったのだろう。あるいは編纂と整理が渾然となった——完全一体となった歴史によって、あるいは 歴史家の願望が入り混ざることで、色々と話がおかしくななったのだろう。そんなことを考えつつ わたしはペンを取り 記していく。そうすることで わたしは歴史を編成していく。わたしは歴史そのものになっていく。